山西 創介
2017年入社

Q.なぜテレビ業界に?
A.創ることを介して、物事を社会に発信したかったから。
Q.今の担当番組は?
A.TBS「噂の東京マガジン」アシスタントディレクターです。
Q.趣味や特技などは?
A.鉄道(いわゆる「乗り鉄」「呑み鉄」「模型鉄」)
 民芸の器収集、珈琲、 音楽(アコースティックギターの弾き語り)
Q.忘れられない仕事上の大失敗or 忘れられない出来事を教えてください。
A.
毎週日曜13時、この時間は決まって、狭いリビングの隅に置いてある小さなテレビの前に家族3人が揃って座った。
チャンネルは6チャンネル流れていたのは、「噂の東京マガジン」。
その1時間はいつも、あっ!という間だった。
山西家的、番組一番の見所は、月に数回、エンドロールの構成 山西伸彦という父の名前。
番組に関わる放送作家のひとりとして、父の名前が画面を駆けぬける、わずかな時間、幼い僕が見た、父の横顔はいつもより、どこか誇らしげだった。
テレビの前にはいつも、猫背気味な父の後姿があった。そこに原稿を広げ、テレビのリモコンと、芯の太さ0.9mmの黒いシャーペンを交互に手にし、VHSを再生しながらナレーション原稿を書くことが、父の仕事だった。
2013年10月27日 日曜日 13時
いつもの通り、あっ!という間の1時間が始まる。
しかし、この日が「噂の!東京マガジン」で父の名前がエンドロールを駆け抜けた最後の日になった。
体調を崩していた父が入院したのだ。病院のベッドでも、父は原稿のことを考えていた。
原稿を書くことが、父の生き甲斐だったのだと思う。だからこそ、再び父の名前を、あのエンドロールで見る日が来るとそのころの僕は、まだ信じていた。でも、ドラマの台本のような奇跡は起きなかった。
2019年3月24日 日曜日 13時
あのころと変わらず、「噂の!東京マガジン」の放送が始まった。
いつも通り、あっ!という間の1時間が過ぎ、エンドロールが流れる。
もちろんそのに、父の名前はない。
でもそのかわり、ディレクター 山西創介とい名前が始めて、画面を駆け抜けた。
そのわずかな時間、僕は幼い頃に見た、父の横顔を思い出した。
「きっと、こんな思いだったのかな?」フラジャイルに入社してから3度目の春は、すぐそこだった。
あの日、エンドロールというスタートラインから駆け出し僕は、フラジャイルに入社してから4度目の春を迎えようとしている。
まだまだ本分がAD業務。僕の名前が出るのは数ヶ月に1回、1分程度のVTRを担当したときだけ。
それでも父の仏壇には少しずつ、僕の名前が出た放送回のDVDが増えてきた。
父の部屋には今も、父が手書きで記した、大量の原稿と台本が遺っている。
そこにはまだ、あの頃のまま力強くて、少しクセのある文字が、父の想いがプライドが、生き続けている。
僕はこれからどう生きるのか?
小さな想いとプライドで、父のように誇らしく生きていけるのか。「(柄でもない)」と我にかえって、僕はまたテレビをつける。
そんな日曜13時